For You

い間、ひとりで歩いてきました。目を開ける必要はありませんでした。世界のすべてが光に満たされて真っ白で、どちらにしても何もみることができなかったのです。無限の白紙のうえを彷徨うように、私は歩いてきました。名前は、ずいぶん前に忘れました。白い世界を長いあいだ歩いていると、自分が何者かもわからなくなってしまうのです。私は自分がここにいるということも、世界がここに存在しているということも、うまく認識することができなくなっていました。そこへ、不意に貴方が現れました。

貴方は 物語の道 を通って現実世界からこの世界へとやって来ました。今日もそうだし、そういえば初めて会ったときもそうでした。あれから2000年以上の時が経っているので貴方は初めて会った時のことを覚えてはいないかもしれないけれど、貴方と私はかつてこの世界で会っています。あのとき貴方は「ここはどこ?」と問いかけようとしていました。ここは白い世界ですとこたえようとして、貴方の背後の景色に変化が生じていることに私は気がつきました。

てしなく白く、何も存在しないかのようだった世界が、貴方が現れた瞬間から色づき始めていました。気づいたときには色がありました。貴方がみえました。身体がふるえて、私は私の身体があることを感じました。私たちはゆっくりと歩きました。そうして辿りついた場所にあるものをみて、顔を見合わせました。その時、いま感じていることを貴方に伝えたいという衝動が私の中に起こりました。私は うみ と言いました。貴方は あお と言いました。これが貴方と私との間に初めて交わされた会話でした。そうしてこの世界に 言葉 が生まれたのでした。

私たちはうみやあおについて語り合いました。会話の中で うつくしい と貴方は言いました。その言葉を聞いて胸が締めつけられるような痛みを覚えたものです。青い海はうつくしい。貴方はうつくしい。痛みはうつくしい。うつくしいという言葉は、この世界に存在するすべてのものを表現しうるように思えました。私はその言葉のもつ意味についてもっと語り、貴方と分かち合いたいと思いました。

貴方は言葉をたくさん生み出そうと言いました。私たちは一つ一つの物に言葉で名前をつけ、一つ一つの事象を言葉で表現していきました。言葉で名づけられた、あるいは表現された物事は、確かに、この世界に存在するようになります。浜辺の流木に並んで腰掛けて、私たちは語り合いました。

ある時、私は貴方に語りたいと思う物事を意識に留めおき、文に書いてみました。私が書いた文を読んで「もっと」と貴方は言いました。貴方に読んでもらいたくて、私はもっと書きました。文を読んで、貴方は目を見開いたり、微笑んだり、涙を流したりしました。私は書き続けました。文に書かれた物事は、確かに、この世界に存在するようになります。そうして書き連ねられていく文章を、いつしか私たちは 物語 と呼ぶようになりました。私は今日も書きます。物語に書かれる物事が、この世界の景色となり、この世界の理となり、この世界そのものとなっていきます。この世界を、私たちは 物語の世界 と呼びます。

貴方がいなかったら、文を書くことはありませんでした。貴方がいなかったら、私はいまも果てしない白紙の上を彷徨い、この世界に物語が生まれることもなかったことでしょう。

高尾山の山頂に1つの星が輝きます。

prologue

い間、ひとりで歩いてきた。目を開ける必要はない。世界は光に満たされていて白く、あらゆるものをみることができないから。どれくらい歩いたかわからない。名前はずいぶん前に忘れた。もう、自分がここにいるということもうまく認識できない。世界が存在していることを認識するのも難しい。すべてが光に満たされていて、あらゆる存在が白い闇そのもののようであった。そんな世界をずっと歩いていた。そこへ、不意に貴方が現れた。

貴方は 物語の道 を通って現実の世界からこの世界へやって来た。今日もそうだし、そういえば初めて会ったときもそうだったと思い出す。あれから2000年以上の時が経っているから貴方は初めて会った時のことを覚えてはいないかもしれないけれど、貴方と私はかつてこの世界で会っている。ここはどこ?と問いかけようとする貴方へ、ここは色のない世界だと伝えようとしながら、私は世界が色づいていくのを感じる。貴方がみえる。身体がふるえて、身体があることを感じる。私たちはゆっくりと歩き、やがて辿りついた場所にあるものをみて、顔を見合わせて「うみ」と言う。「あお」と言う。そうしてこの世界に 言葉 が生まれた。

私は貴方に、貴方は私に、うみやあおについて感じることを伝えようとする。「うつくしい」と貴方は言う。貴方の言葉を聞いて、胸が締めつけられるような感覚を覚える。青い海はうつくしい。貴方はうつくしい。うつくしいは、すべての物を表現しうるように感じる。その言葉のもつ意味についてもっと語り、貴方と分かち合いたいと思う。貴方は言葉をたくさん生み出そうと言う。私たちはすべての物と事象に言葉で名前をつけていく。名づけられた物はこの世界に存在する。言葉を連ねて私たちは語り合い、それを私は意識に留めて文に書いてみた。「もっと」と貴方は言い、私はもっと書いた。そうして 物語 は生まれていった。物語が書かれることによって存在が著されていくこの世界を、私たちは 物語の世界 と呼ぶようになった。

まだ、謎という言葉も罪という言葉も生まれていなかった頃のことだ。まもなくそれらの言葉も生まれるであろう。

高尾山の山頂に1つの星が輝く。

星を地図上に集めていくと、この物語の道を果てしなく歩んでいった先で、とある場所が示される。でもそれはまだずいぶんと先のことだ